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2006年6月30日 (金)

量子的ジャンプ

サンルーフを開けてクルマを走らせていて、離合で停車していたところ 上から危うくゴイサギのふんがかすめた。ねらわれたのかもしれない。上からは丸見えだ。命中していたら被害甚大だった。頭上の開口部には用心か。

T2000gt 開口部といえば、トヨタ2000GTの前輪とドアの間にあるパネル開口部はなんだろう、という疑問が投げかけられて、しげしげと写真をみてみた。整備用アクセスパネルの一種ではないか、と思われるがそれにしては大きい。結構エンジンがびっちり入っているので整備性で問題あったのだろう。外見からは確かに不思議な扉だ。言われてみると気になる。

しかしクルマは遊びだな、これはなくならない。35年前のクルマでも魅力的だ。

クルマの誕生からの歴史を追うと、基本的な仕掛けが短い間に確立されて後はそれを徐々に改善していったに過ぎないように見える。
あとまで残るものはこうして一部の天才の手による量子的ジャンプで形作られるのか、と時々思う。

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2006年6月26日 (月)

歩いていけばたどり着けそうにも見える

この間久しぶりに神田あたりに行くことあり歩いていたら、どうみてもミヤマカラスアゲハにみえる蝶が舗道の脇の植え込みをひらひら飛んでいてちょっとびっくりした。どこかにキハダでも植えられているのかしらん。深山でなくても条件さえ合えば繁殖できるのだろう。東京には緑が多い。
Hayabs1 はやぶさの話を聞いた。鳥ではなく、旧陸軍の戦闘機でもなく、惑星探査機のはやぶさだ。電波が届くのに数十分かかる小惑星イトカワに苦難の末見事着陸したのだけれども、結局自立制御では判断が難しく、地球からの遠隔操作で人間が判断しながら着陸させるはめになった、という。
想定しない状況下で刻々判断していくにはやはり人間の頭脳が圧倒的に優れているということのようだ。バイオテクノロジーの極致のような自然の作り出したコンピュータである脳にいつになったら凌駕できるものを人間はつくりだせるのだろうか。
それどころか、ひらひらと舞うミヤマカラスアゲハにかなうものを、いつになったらつくりだせるのだろうか。
まだ随分と道のりがある。でも歩いていけばたどり着けそうにも見える。

はやぶさは再離陸後、燃料漏れを起こし、ぼろぼろになりながらも、姿勢を立て直し、地球へ向かう準備をしつつある。せめてそばまで帰ってきて欲しい、何かの一歩が進んだことを共感するために

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2006年6月23日 (金)

ほたる2

Hotar 今日は ほたるが出てきた。とにかくムシが多い。蚊も多い。でも、5匹くらいだけれども、とにかく見れたのをよしとして、ムシを払いながら帰ってきた。

こうやってまた一年と年を重ねる。

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2006年6月20日 (火)

知ることで世界が少しずつ変わる

_ 図書館で借りてきた“鳥と人間”という山階鳥類研究所編の本を読んでいる。常々疑問だったことが色々書いてあり、なかなか。

皇居の中に深い谷があり、ここにハシブトカラスをハンティングするようになったオオタカが棲みついている、という。ドバトだけでは食っていけず、ついにカラスに手を出した、ということで、カラスに追われるオオタカを見慣れていると、エッと思うが、ねらい定めて攻撃すればオオタカが勝つのは当然といえば当然。世のカラス対策にオオタカが登場する日がくるかもしれない。
鶴。出水にきているナベヅルは、実は世界中にいる12000羽くらいの大部分がやってきている、繁殖地はアムール川の支流のビギン川他だが、繁殖地が確認されたのは最近のことで、なぞに包まれていた、という。ナベヅルというと黒っぽくてぱっとしなくて、見に行きたいと思わせなかったが こんなことを知ると、何かの機会を見つけて見ておかねば、と思えてくる。

知ることで、世界が少しずつ変わる、世界とは自分が認識できるもの以外ではないのだから。学ばねばならないことが多い。

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2006年6月15日 (木)

ほたる

ほたるが出る時期になってきた。雨の日は勿論だめで、曇りで風が弱くちょっとむっとする日が良い、と何処かで聞いた覚えがあり、ちょうど今夜がそんな感じ、とばかり暗くなって出かけることにした。私も、という声がして、連れだって行くことにした。烏山は勿論遠く、羽黒山のふもともちょっとばかり遠い、あまり家を空けてもおれない、手近に市内美術館裏に行くことにした。いつものように環状線から曲がり込んだのだが、今日は信号を見事にくぐりぬけて、あっというまに着いてしまった。こんなこともあるんだ。手前の道路脇の暗がりに一台停まっている。構わず駐車場所まで行く、真っ暗で誰も来ていない。クルマのドアを開けると、風が涼しい。むっとした感じはない、少しばかり時期が早いようだ。あたりを一瞥するが、ほたるがいない。ともかく小川に沿って下り始めると、後方から、ほたるいますか、の声有り、くだんのクルマの人らしい、居ないみたいですよ、と答えると、そのまま帰ってしまった。そうだよな、でもこちらは探すだけはやろうとばかり、ゆっくりまた道を下る。白っぽいものが川の中にぼんやり見えるが、花だ。終点まで行って折り返す、ほたるは出ない。人もこない。しかしなんとも気持ちがいい。元のところまで戻ってしばらく待ってみることにする。毎年減っていくというから、見物に来た子供にほたるを取ってやったりして、いなくなったのでは、と思ったりもする。待っている、しかし出ない。1匹くらい出そうではあるのだが出ない。やはりまだだめらしい。1週間位したらまた来てみるか、とばかり、あきらめてクルマを出す。帰る頃になって漸く四駆が一台現れた。出ない時には人も集まらない。

一週間経っても出ないかもしれない、ここはもうダメになったのかな、そんなことを話しながら夜の環状線を走る。夏至が近い。

ほたるを見に行ってほたるに会えない、そんな晩でも惜しく思えない気がする、今宵だ。

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2006年6月13日 (火)

駒生湿地

Knyu1_1 駒生湿地というのが近くにある。国の管理地で旧陸軍の射撃場跡なんだけれども、わき水があり日本の重要湿地500の一つに指定されていて土塁に囲まれた中は周りの住宅地と異質な空間が保持されている。以前は柵もあいたところがあり、入ろうと思えば入れたが、今年に入って周りにきっちり柵がめぐらされて本当に立ち入りが出来なくなった。去年はちょっとしか見なかったが7-8年前にゆっくり見たときにはあたりと違う植物に満ちていた、キジも生息していた。その後何故か重機で整地していたが貴重な植物が激減したらしい。何のために何をやっているのか、税金の無駄遣いで環境を破壊しているとしかみえない、ばれないように立ち入り制限を厳しくしたような気がする。

栃木県発行のレッドデータブックにも色々と貴重な植物の生息地として記述されており、認知されていることは明らかなんだけれども公の手で破壊されているようでなんとも気持ちが悪い。国の(財務省?の)管理地に県は干渉できないのだろう、馬鹿げている。

そのうちまた柵も朽ちてこよう、そうしたらまた調べに行くか。

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2006年6月 9日 (金)

雲がたれ込める日々

Kirifr 梅雨の間、低い雲が空を重々しく覆う。冷たい東風が吹いて、梅雨寒にもなる。

気象庁の計算結果を見ると、梅雨を特徴づけているオホーツク高気圧から吹き出す冷い東風でできる雲は850hpより低い高度にあり、実はこの雲はそんなに厚くない。

先日 雲がたれ込める日々にいやになって、思い立って、朝早起きして霧降の道をクルマで駆け登った。1500mちかい駐車場からは、眼下に一面の雲海がひろがり、これを抜け出して朝日が輝いている。頭上はややうすくらいが青空だ。

下界で見上げていると重々しい雲だが実は大した厚さがない。みかけであきらめてはいけない、と自然が教えてくれるようだ。重々しい雲の上には気持ちの良い青空が広がっている。鳥も歌っている。気がつかなければそのまま重苦しく季節をすごしてしまう。

踏み込めば自然はこたえてくれる、人間そのものが自然の一部なのだから、そんな風に考えると解ったような気がしてくる、あぶない、あぶない。

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2006年6月 7日 (水)

悪魔がやってくる

163 この間もそんな場面に遭遇したのだけれども、地球温暖化の議論は極論に走りやすく、聞いていて嫌になることが多い。多分、いわれている温暖化の説明が今までの地球の気候変動を必ずしも説明できないように思われ怪しいのではないか、という反面、人為的CO2の急上昇は明らかな事実でありこのまま放置しては必ず何かが起こるという苛立ちが他方にあり、そんなことになるのだろう。

要するに不完全な理論で政治が走っており、議論好きには格好の題材を提供する。
よく解らない異常気象の原因に祭り上げられたり、魔女狩り的雰囲気さえ出てくる。

少し前に2000年問題というのがあってかなりの騒ぎになったが何も起こらなかった、どこか似ている、きっと現代のそこはかとない不安を何かで象徴させたい、という心理が、悪魔がやってくる、この世の終わりがやってくる、という話を信じやすくしているのだろう。社会現象ととらえたほうが正しそうだ。2000年問題の時もほんとにそんなパニックが起こるのか、とは思うものの、起きないとは誰も証明できない、起きそうだ、リスクがある、とは容易にいえる。2000年問題は時が答えを出して明快だが、温暖化はそうはいかない。いつまでもこの議論が続くに違いない。誰も何も起こらないとは証明できない。
22世紀までこんな議論をしているのだろうか。

これは適当につきあって行くしかあるまい。少々気が滅入る。

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